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フランス代表と移民文化

フランス代表メンバーなぜフランスは、ロシアワールドカップだけで50人(フランス代表21人。他の国の代表29人)もの選手を送り出せたのか? 今回はその謎に迫る。

 

移民文化

第一次変化(1940年代後半〜)

フランスサッカーを語る上で切り離せないのが移民文化だ。最初に大きな変化があったのは、1940年台後半。第二次世界大戦後、フランスは焼け野原で壊滅的な状態だった。再建のために多くの労働力を必要とした。そこでフランスは労働力確保の手段として北アフリカを始め、東・南ヨーロッパなどから移民の募集を始めた。その間、フランスへ移民した人の数はなんと270万人。その数は周辺のヨーロッパ諸国よりもずば抜けて大きな数字だった。

 

第二次変化(1960年代〜)

第二次世界大戦後、多くの移民を受け入れ再建に成功。1960~70年代にかけ、フランスの景気は上昇した。だが、ここで次の問題に直面する。それは人手不足だ。急激な成長に人手が追いつかなくなったのだ。そこでフランスが次に取った行動、それはフランス植民地(西アフリカ&カリブ海諸国)から移民を受け入れることだった。そして移民の多くはパリ、マルセイユ、リヨンなど大都市の郊外に定住し始めた。

 

フランス代表の危機

時を同じくしてフランス代表は危機的な状況に直面していた。とにかく1960~70年代のフランス代表は弱かったのだ。ワールドカップは58年のスウェーデン大会で3位に入ったものの、その後62年チリ大会、70年メキシコ大会、74年西ドイツ大会においては予選敗退。欧州選手権に至っては64年、68年、72年と3大会連続で予選敗退。近年のフランス代表の活躍(2016年欧州選手権準優勝、2018年ワールドカップ優勝)を考えると、当時のフランス代表は信じられないくらいに弱かったのだ。

ナショナルトレーニングセンターの設立

この状況に危機感を感じたフランスサッカー協会は、代表チームを強くするために人材の育成に乗り出した。1972年、ちょうどフランスの真ん中に位置するヴィシーにナショナルトレーニングセンターを開設した。このような育成プログラムはヨーロッパで初のことだった。
ナショナルトレーニングセンター

1976年には国内のプロチームに地元の有能な選手をかき集めるように働きかけた。このようにしてフランスは代表・チームレベルで育成に乗り出し、有能なプレーヤーを探し出せるシステムを作っていった。

1988年、ナショナルトレーニングセンターはパリ郊外に移転。このトレーニングセンターはクレールフォンテーヌ国立研究所と呼ばれる。サッカー好きの方の中には、この名前を聞いたことがある人も多いかもしれない。クレールフォンテーヌ国立研究所では今までアンリ、アネルカ、サハ、ギャラス、そしてロシアワールドカップで大活躍したエムバペなど世界で活躍する選手を多く輩出して来た。

 

98年フランスワールドカップ

人材育成が身を結んだのは1998年フランスワールドカップだろう。フランス代表は決勝で前回大会王者のブラジル代表を3-0で破り、初めてワールドカップのトロフィーを手にした。優勝メンバーにはクレールフォンテーヌ国立研究所出身のアンリがいて、ジダンをはじめ多くの移民出身者がいた。まさに98年のワールドカップ優勝はフランスサッカー協会にとってナショナルトレーニングセンター、移民文化の集大成とも言えるものだったのだ。

前回の記事:生まれた育った国以外の代表チームでプレー