皆さんはワールドカップ得点王が三大会連続でJリーグに来た時のことを覚えているだろうか?
それは
- リネカー(86年ワールドカップ得点王)
- スキラッチ(90年ワールドカップ得点王)
- ストイチコフ(94年ワールドカップ得点王)
である。
当時のJリーグは異様な雰囲気だった。次々と大物外国人が新しく出来たばかりの極東のリーグにやってきた。今の中国リーグと少し通じる点がある。
だが、同時にJリーグは別名「年金リーグ」とも呼ばれていた。ピークを過ぎた大物選手が引退間際に大金を稼ぐ場だと言われていたのだ。
今回は、Jリーグでプレーしたワールドカップ得点王が当時どのようなコンディションだったのかデータで客観的に振り返っていきたい。
リネカー
ゲーリー・リネカー(86年ワールドカップ得点王)
- Jリーグ加入時32歳
- 1992-94 名古屋グランパス(18試合4得点)
- 年俸3億円(当時のJリーグ最高年俸)
Jリーグ加入直前の3シーズン成績
年度 | チーム | 出場 | ゴール |
1989-90 | トッテナム | 38 | 24 |
1990-91 | トッテナム | 32 | 15 |
1991-92 | トッテナム | 35 | 28 |
リネカーは86年メキシコワールドカップで6得点をマークし得点王に。大会後はスペインの名門バルセロナへ。バルセロナに所属した3シーズンでは103試合出場42ゴール。
グランパスに加入する直前は、母国のトッテナムにて3シーズンプレー。上記にある数字を見ると、その活躍が伺える。3シーズン全て30試合以上の出場&2桁得点。特にグランパスに移籍する直前のシーズンに関しては35試合で28得点とこれ以上ない成績を上げている。
まさに鳴り物入りでのJリーグ加入。当時のJリーグにはディアス、リトバルスキーなど世界の大物選手が数多くいたが、とりわけリネカーに対する注目度は大きかった。
だが、Jリーグでは周囲が期待するほどの活躍を見せることができず、通算18試合4得点となんとも寂しい数字でワールドカップ得点王はそのまま現役引退することになる。
スキラッチ
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サルヴァトーレ・スキラッチ(90年ワールドカップ得点王)
- Jリーグ加入時29歳
- 1994-97 ジュビロ磐田(78試合56得点)
Jリーグ加入直前の3シーズン成績
年度 | チーム | 出場 | ゴール |
1991-92 | ユヴェントス | 31 | 6 |
1992-3 | インテル | 21 | 6 |
1993-4 | インテル | 9 | 5 |
スキラッチは地元で開催されたワールドカップイタリア大会でまさにラッキーボーイだった。サブメンバーながら途中出場した試合ではゴールを重ねた。その活躍からイタリア語で幸運を意味する”トト”と呼ばれ親しまれた。イタリアワールドカップでは7試合で6得点を記録して見事、得点王に。
だが、それ以後はなかなか冴えないシーズンが続いた。上記のJリーグ加入前の3シーズンを見て欲しい。出場こそしているものの、ゴール数は一桁。ワールドカップ得点王にしては寂しい数字である。
Jリーグに来た当時、スキラッチは29歳。年齢的には若かったが、キャリアで言うとピークを過ぎた選手と呼ばれていた。
だが、蓋を開けて見ると彼の活躍は凄まじかった。とにかく点を取りまくったのだ。特に95年は34試合で31得点を記録し得点王に。期待されながら結果を出せなかったリネカーとは対照的な活躍だった。
ストイチコフ
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フリスト・ストイチコフ(94年ワールドカップ得点王)
- Jリーグ加入時31歳
- 1998-99 柏レイソル(27試合12ゴール)
Jリーグ加入直前の3シーズン成績
年度 | チーム | 出場 | ゴール |
1995-96 | パルマ | 23 | 5 |
1996-97 | バルセロナ | 22 | 7 |
1997-98 | バルセロナ | 4 | 0 |
1997-98 | CSKAソフィア | 4 | 1 |
1997-98 | アルナスル | 0 | 0 |
94年ワールドカップはブルガリア代表とストイチコフにとって忘れられないものとなった。ブルガリア代表はそれまで出場した5回のワールドカップで一勝も上げることができなかった。そんなチームが準決勝まで進出したのだ。その躍進は、6ゴールで得点王に輝いたストイチコフの活躍なしでは語れなかった。
1990-95をバルセロナで過ごしたストイチコフは151試合で76得点と驚異的な数字を残す。当時のブルガリア代表の実力を考えると、まさに突如出てきた希望の星だった。
だが、その後、当時世界最高リーグと言われたセリエAに移籍すると力を発揮できない時期が続く。バルセロナに出戻るも以前のような輝きはなく、転々と移籍を繰り返す。
そして辿り着いた先が、Jリーグだった。上記のJリーグ加入直前の成績を見れば分かる通り、完全にピークを過ぎていた。
しかし、彼は27試合という少ない試合数ではあったが、それまでのJリーグにはなかったダイナミックなプレーで多くの人に強い衝撃を与えた。
特に、98年セレッソ大阪戦での直接フリーキックは今でも語り継がれるほどインパクトのあるものだった。数字面ではワールドカップ得点王に見合うものでなかったかもしれないが、インパクトの面では十分にそれに値する選手だった。
これが98年セレッソ大阪戦の直接FK