当サイトは一部の記事にプロモーション広告を含みます。

中田英寿「20年目の旅」#1|ペルージャ

Embed from Getty Images
1998年9月13日、セリエA開幕戦「ペルージャvsユベントス」。一人の日本人選手が世界を驚かせる。ユベントスから2ゴールを奪ったのだ。選手の名は中田英寿。当時21歳だった。

中田は最初のシーズンで10ゴールを奪うと、翌シーズン途中にローマへ移籍。そこで自身初タイトルとなるスクデットを獲得。

その後、パルマへ移籍金33億円(当時のアジア人最高額)で移籍。イタリアで過ごした9シーズンで計5クラブを渡り歩いた。

あの衝撃的な開幕戦から今年でちょうど20年が経つ。それを記念して9月13日にAbemaTVにて「20年目の旅」と題して中田本人が所属していた5クラブを訪ねる番組が放送された。

当時は話せなかった舞台裏などもあり、あっという間の2時間だった。

今回は番組内であった面白い部分を箇条書きでまとめてみた。早速、ペルージャ編からまとめてみたい。

インタビュアーは金子達仁。インタビューは1998−99シーズン開幕戦で中田がゴールを奪ったレナト・クーリスタジアムのピッチ内で行われた。

ペルージャに移籍を決めた理由・経緯

  • イギリス・スペインからもオファーはあった。その中で一番、ペルージャが試合に出られる可能性が高いと感じた。
  • 何試合以上出場などの条件は契約事項になかった。
  • ペルージャの街はのどかだった。その点が気に入った。
  • イギリスからのオファーはアストン・ヴィラだった。わざわざ現地まで行った。だが、ビザなど集める書類が多くて面倒だと感じた。
  • インテルからもオファーがあった。だが、すぐに他チームへレンタルと言われていたので魅力を感じなかった。
  • 当時、セリエAは世界最高リーグ。イタリアにすごい憧れがあった。セリエBに行くことは考えても、イタリア以外の国に行くことは現実的に考えられなかった。

ペルージャで過ごした日々

  • 加入一年目 98−99シーズン 33試合10ゴール
  • 開幕戦の2ゴール。相手がユベントスという点が大きかった。イタリアのメディアが大きく報じた。それはチーム内での自分の立場を変えた。練習でもパスが回ってくるようになった。
  • 開幕戦 自分とデル・ピエロの2ショットを取ろうと日本のメディアが多すぎて困惑した。
  • 当時の日本の報道陣の過熱ぶりに正直戸惑った。自分はまだセリエAで実績を出してない。そういう選手にたくさんの報道陣。チームメイトにもそのことで気を使った
  • チームメイトのラパイッチ(クロアチア代表)は、とにかくすごかった。あんな突破力のある選手を見たことない。彼のチームへの貢献度は計り知れない。だが、心にムラがあった(今日は練習する気ではない等)。
  • 後にイタリア代表となる若き日のマテラッティともプレーした。
  • イタリア語は家を借りていたオーナーの親戚に教えてもらっていた(彼らとは今でも仲が良い。今回の旅でも再会)。

ペルージャを離れた理由

  • 今までの移籍の中で一番悩んだ。1月の移籍期限ギリギリまで迷った。
  • 当時のペルージャのチーム状況は良くなかった。この場面で移籍していいのかという葛藤があった。
  • 中田の移籍金は右肩上がりでどんどん上がった。当時のペルージャのガウチ会長は、「今じゃないと移籍できないぞ」と何度も言った。あまりにも移籍金が高騰して売れなくなることを恐れていた。
  • イタリアの敏腕代理人ブランキーニを紹介される。その後、ローマからオファー。
  • シーズン途中の移籍は不安。だが、代理人から何度も「来年もローマからオファーがあるとは限らない」と言われる
  • ローマの王子トッティの存在は移籍を考える上で大きかった。自分は試合に出られるのか?
  • 同時にペルージャでやって行くことへの限界を感じる。チームメイト・チーム全体のレベルを見た時、選手として更に上を目指すにはここでは難しいと思った。
  • 「次、同じ条件でオファーがあるとは限らない」この言葉を何度も周りは繰り返していた。

中田英寿「20年目の旅」続編

中田英寿「20年目の旅」#2|ローマ

中田英寿「20年目の旅」#3|パルマ

中田英寿「20年目の旅」#4|ボローニャ・フィオレンティーナ

中田英寿「20年目の旅」#5|日本代表

中田英寿「20年目の旅」#6|サッカー選手と語学力