先日、家にあった1995年のJリーグのビデオを見ました。
見ているうちに、今のJリーグと比べて、あまりにも突っ込みどころが多かったため、その点をまとめました。
現在のJリーグと比べて驚いた主な点は下記の通り。
- スタジアム
- 過酷な日程
- 特別活動地域
- ルール
順番に説明していきます。
スタジアム
1995年のJリーグを見ていて、まず最初に驚いたのがスタジアム。
今でこそサッカー専用のスタジアムは当たり前ですが、この頃は陸上競技場での試合がほとんどでした。
球技専用スタジアムも一応あったのですが、今のように規模の大きなものではありませんでした。
例えば、カシマサッカースタジアムは改修前で1階建。当時の収容人数は1万5000人でした。
そして、ビデオを見て行くうちに色んな意味で衝撃を受けたのが大宮サッカー場。
その画像がこちら↓
現在はNACK5スタジアムとして知られる大宮サッカー場。
当時のゴール裏はご覧のように席数も少なかったんです。
というか、大宮が赤で染まっている?
そう、このシーズン、浦和レッズは大宮サッカー場でホームゲームを戦っていたのです。
現在の大宮サッカー場(NACK5スタジアム)といえば、浦和レッズのライバルである大宮アルディージャのホームスタジアム。
ライバルのスタジアムをホームで使用していたとは、今となっては信じられないことです。
更には上記の試合の対戦相手は横浜フリューゲルス。
この数年後に消滅したチームです。
この時期、Jリーグは世界からそれまでにないスピードで成長しているリーグと表現されていました。
しかし、こうしてみると同じく今までにないスピードで変化のあったリーグでもあったようです。
過密な日程
この時期のJリーグは、スケジュールの面で「世界一過酷なリーグ」と言われていました。
理由は週2(水曜・土曜)で試合をやっていたからです。
1995年ののJリーグは、14チームでセカンドステージ制でした。
各シーズンは、ホームアンドアウェーの総当たり戦。
つまり、26試合×2ステージ=年間52試合だったわけです。
これにナビスコカップ、天皇杯が入るわけですから多くの選手、とりわけ日本の暑い夏になれていない外国人選手にとっては辛いものだったでしょう。
特別活動地域
当時のJリーグは、今のように全国にチームがあったわけではありません。
そこで特別活動地域というものが設けられていました。
特別活動地域とは、Jリーグのチームのない地域で試合を行うもの。
もちろん、これはJリーグの知名度を全国区に広げようという試み。
例えば、「横浜フリューゲルスvsベルマーレ平塚」が熊本で行われたり、「ジェフ市原vs横浜マリノス」が秋田で行われたりしていました。
ホームゲームでのアドバンテージを考えると、今では信じられない制度です。
因みに、1995年の特別活動地域での試合の一例は下記のようになっています。
試合 | 場所 |
浦和レッズ vs ジュビロ磐田 | 新潟 |
ジュビロ磐田 vs ベルマーレ平塚 | 福井 |
横浜フリューゲルス vs ヴェルディ川崎 | 富山 |
ガンバ大阪 vs 柏レイソル | 神戸 |
鹿島アントラーズ vs ガンバ大阪 | 金沢 |
ルール
この頃のJリーグには、世界に類を見ない特殊なルールがありました。
それは延長戦。
今でこそ、90分を終えた時点で同点だった場合、リーグ戦は引き分けで試合を終えますが、当時は試合が決着するまで戦っていました。
そのやり方が、また変わっていました。
Vゴール方式だったんです。
Vゴール方式とは、どちらかがゴールをとった時点で試合が終了するというルール。
例えば、極端な話、延長前半1分にどちらかがゴールしたら、その時点で試合終了というもの。
もし延長戦でも試合が決着しなければPK戦へ突入。
面白いルールが、PK戦まで行けば負けたチームも勝ち点1をゲットできました。
リーグ戦で毎回このように決勝トーナメントのように試合をしていたのは、選手にとってかなりの負担だったことでしょう。
これも当時Jリーグが「世界一過酷なリーグ」であると言われた理由の一つです。
因みに、Vリーグ方式は、なぜか1998年フランスワールドカップで採用されました(次の2002年大会からは採用されず)。
まとめ
以上、20年前のJリーグを見て驚いた点でした。
サッカーのルールや環境は日々変わっていくもの。
今から20年後、逆に現在のサッカーのルールを見て、変わっていると感じるかもしれません。