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Jリーグで引退した世界的スター選手たち【一覧表】

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6月23日にサガン鳥栖のフェルナンド・トーレスが8月23日のヴィッセル神戸戦での現役引退を発表した。

トーレスと言えば、スペイン代表としてワールドカップと欧州選手権を制覇。クラブでは、アトレティコ・マドリード、リヴァプール、チェルシー、ACミランと名門チームを渡り抜いたスター選手だ。

ベストなコンディションでプレーできなくなったことが引退の主な理由だが、現役続行を予想するファンが多かっただけに、その決断は周囲を驚かせた。

今回は、トーレスのように世界的スター選手がJリーグで引退した例を取り上げていきたい。

ジーコ

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後に日本代表監督となるジーコが来日したのは1991年こと。

この時、まだ日本にJリーグはなく、ジーコが入団したのは住友金属だった。

当時、日本サッカーリーグ2部に属し弱小チームだった住友金属は、その後、鹿島アントラーズとなってJリーグ入りを果たすと強豪チームへと変貌する。

因みに、ジーコはブラジル代表として71試合48得点と押しも押されぬ80年代前半のスター選手。

そんなジーコが、なぜ日本へやってきたのか?

ここには後に紹介するスター選手とは違った事情があった。

実は、住友金属からオファーをもらった時、ジーコは既に現役を引退していたのだ。

1989年に引退したジーコはブラジルでスポーツ担当大臣をしていた。しかし、これから新たにプロリーグができるということ、そしてゼロからチームを作り上げていくということに魅力を感じ、日本という地で現役復帰したのだ。

そんなこともあり、ジーコが住友金属に入団した時は既に38歳だった。しかし、それから3年間、ジーコは鹿島アントラーズの礎を作り、45試合35得点という年齢から考えると驚異的な数字を残した。

ジーコがいなければ、今の鹿島アントラーズはなかったと言って良いだろう。

そんな彼の功績を称え、カシマサッカースタジアムにはジーコの銅像が置かれている。

リトバルスキー

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90年ワールドカップを圧倒的な強さで制した西ドイツ代表。

リトバルスキーは、その西ドイツ代表において中心メンバーだった。代表では73試合18得点という記録を残している。

そんな彼が日本に来たのはJリーグが開幕した年。

ジェフ市原に入団すると、2年間で63試合10得点を記録。

記録の上では10得点だが、彼の華麗なドリブル、フリーキックはそれ以上のインパクトを残した。

ジェフ退団後は、当時JFLだったブランメル仙台(現ベガルタ仙台)に入団し2年プレーした後、引退。

妻が日本人ということもあってか、リトバルスキーと日本との絆は引退後も非常に深い。

一時期は日本のサッカー番組にも度々出演していた。日本語も込み入ったものでなければ普通に話せる。

その他、横浜FC、アビスパ福岡の監督も務めた。

ディアス

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1979年に日本で行われたワールドユースでは、アルゼンチン代表としてマラドーナと共に優勝を経験。ディアス自身はこの大会で得点王も獲得した。

A代表では82年スペイン大会に出場したものの、通算22試合10得点と記録の上では他のスター選手と比べて代表での試合数は少ない。

クラブレベルでは80年代にセリエAの4チームを渡り歩き、1988-89シーズンにはインテルでスクデットを獲得している。

そんな彼がJリーグに来たのは1993年。入団したチームは横浜マリノスだった。

記念すべきJリーグ開幕戦・ヴェルディ川崎対横浜マリノス戦ではゴールも決めている。

加入した時の年齢は34歳と選手としてのピークは過ぎていたが、ディアスはマリノスに所属した2年半で75試合52得点という驚異的な数字を記録する。また、彼はJリーグ初代得点王でもある。

しかし、これだけの成績を残しながら95年にマリノスの監督に就任したホルヘ・ソラーリと馬が合わず退団。そのまま引退となった。その為、引退セレモニーなどはしめやかに行われ、どこか寂しい去り際となった。

だが、ここでディアスは終わらなかった。その後、母国リーベル・プレートの監督に就任したディアスは96年のリベルタードーレス杯でチームを南米王者に導き、その年に行われたトヨタカップでは監督として日本へ戻って来たのだ。

因みに、自身の引退の発端となったホルヘ・ソラーリの甥であるサンティアゴ・ソラーリ(後にレアル・マドリードなどで活躍)をディアスはリーベル・プレート在籍時にデビューさせている。

リネカー

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リネカーはJリーグの初代鳴り物入り選手と言って良いかもしれない。

86年ワールドカップ得点王のリネカーは年俸3億円(当時のJリーグ最高年俸)で92年に名古屋グランパス入り。加入時の年齢は32歳だった。

リネカーがJリーグ入りした他のスター選手と違った点、それは欧州で現役バリバリで活躍していた点だ。

名古屋グランパス加入直前は、トッテナムでプレーしていたのだがその時の成績がすごい。

表で表すと下記のようになる。

年度 チーム 出場 ゴール
1989-90 トッテナム 38 24
1990-91 トッテナム 32 15
1991-92 トッテナム 35 28

 

上記の成績からも分かる通り、リネカーはグランパス加入直前の92年までイングランド代表選手として活躍していたのだ。

そんなスター選手がJリーグ入りするのだから、周りが騒がないはずがない。リネカーがどれだけ点を取るのだろうかと期待に胸を膨らませた人も多いはずだ。

しかし、リネカーはグランパスに在籍した2年で18試合4得点と何とも期待外れな結果に。

Jリーグを沸かした外国人選手の特集などで、リネカーがあまり出て来ないのはその為だろう。

尚、リネカーは引退後は母国イングランドで解説者として人気を得ているようだ。

エムボマ

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”難波の黒豹”ことエムボマ。彼がJリーグに与えた衝撃は半端ないものだろう。

彼が前述の4人の選手と違う点は2点ある。

それは、「時期」「キャリア」だ。

順に説明していきたい。

まずは「時期」から。

エムボマがガンバ大阪に加入したのは1997年のこと。この頃はJリーグバブルも弾け、観客席には空席もチラホラ目立つようになっていた。

そんな中、今までJリーグにはなかったアフリカ人特有の身体能力で何度もスタジアムを沸かせたエムボマの功績は計り知れないだろう。

長い目で見ると、人気に陰りが出始めていたこの時期のJリーグにエムボマのような個性ある選手がいたことは非常に大きかったことだろう。

次に「キャリア」だ。

前述の4人の選手は、既に海外でキャリア形成をした上でのJリーグ入りだった。しかし、エムボマは違った。

ガンバ大阪移籍直前はパリ・サンジェルマンにいたエムボマ。しかし、パリ・サンジェルマンではレギュラーを掴むことができず、レンタル移籍を繰り返す日々。

カメルーン代表には既に呼ばれていたが、決して世界的な選手とは言えなかった。

しかし、ガンバ大阪で活躍し調子を上げたエムボマは、その後、98年・02年ワールドカップに出場。00年に行われたシドニーオリンピックではオーバーエイジ枠として出場し、チームを優勝に導く。また、その年のアフリカ最優秀選手にも選ばれる。

チームレベルでもガンバ大阪から当時世界最高峰リーグと呼ばれたセリエA(カリアリ・パルマ)へ移籍した。

当時、中田英寿など日本代表の有望選手が海外の主要リーグへ移籍することはあったが、Jリーグの外国人選手がそうなるケースはレアだった。

まさにJリーグで活躍して世界へ羽ばたいた選手と言って良いだろう。

知名度は低いものの実力ある選手を獲得し成長させて他のチームへ売ることは、海外主要リーグではよくあることだ。

しかし、それまでのJリーグではなかったことだ。

Jリーグに来る外国人選手と言えば、ピークを過ぎた選手が多かったイメージがある。そのため、海外からは”年金リーグ”と揶揄されることもあった。

そのような点も含め、エムボマはプレーもさることながら、残した軌跡もJリーグにとっては大きなものだ。

エムボマは海外リーグを経て2003年に東京ヴェルディに加入すると、その後移籍したヴィッセル神戸で2005年に引退した。

尚、他にJリーグで引退した外国人スター選手にはベギリスタイン(浦和レッズ)、フットレ(横浜フリューゲルス)、スキラッチ(ジュビロ磐田)などもいる。